《研究遍歴の背景》


 (中学校では蝶に夢中)

 中学時代は蝶の種以下の分類に興味を持ち、その比較をする為に休日は野山での蝶の採集、家に居るときは飼育(当時、生態と呼ばれていた生活史の解明)に、それこそ明け暮れた。
 特に高山蝶のミヤマモンキチョウとベニヒカゲを使い、地理的隔離が生殖的隔離を生み、その過程でローカル・タイプ(地方型)、さらにはサブ・スピース(亜種)を生じる過程の調査をした。
このような事もあって中学生ではあったが、当時、設立された日本鱗翅学会の設立会員である。
 高校2年の時、父を亡くしました。家業だった印刷屋(株・銀映耕房、当時・売上げ年間1億弱、従業員30名で、映画台本の印刷を専門としていた)の経営を母と当時・大学生だった兄が継ぎました。

<以下の新聞記事と写真は、’08.2.15偶然見つけたので添付しました>
 この印刷会社は今で言えば、ニッチビジネスだったのですね。
 共同通信社が「おれたちも活動屋」というテーマで取材したが、長崎新聞や山陽新聞('78年9月13日)に掲載されました。この記事「台本屋さん」をご覧いただくとビジネスの内容が分かりやすいと思います。

  
←クリックすると拡大されます

 また父が亡くなり、母と兄が経営していたので、父の友人の映画屋(関係者)さんが入稿を兼ねて、よく激励に銀映耕房に来てくれました。私が高校、大学の時の記憶では、下記の市川監督や、とっても優しい感じの五所平之助監督です。
 下記の写真は市川監督が来られた時のものです。後列真中の黒のポロシャツが市川さん、右隣が母、そして下から右端が私と、隣が兄です。皆、懐かしい顔ばかりです。

              
                       <市川監督を中心に会社メンバー>

(大学時代、兄と一緒に印刷屋の経営)

このような事もあって、家業を継続しなければという危機感もあり経営(工場や作業の改善)に興味を持ち、日本大学理工学部経営工学科に入学しました。
 私が大学生の時、兄の長期入院などがあり、同印刷会社の経営に加わったり、新工場の設計も手掛け、全くのオンザジョブ・トレーニングでした。
 また同級生の多くが地方の経営者の子息、跡取りでした。夏休みの旅行を兼ね、同級生の親の工場を廻りました。当時、米国からの直輸入の品質管理、生産管理(タイム・スタディー)、オペレーションズ・リサーチ(OR)を引っ下げて、コンサルタントまがいをして旅費を稼いだりもしました。

(地域と企業・工場の関係に興味を)

地方企業、工場廻りをしている内に、地域と企業との関係、例えば工場立地、地場産業、地域開発に興味が移りました。
 当時・科学技術庁(資源調査会、旧・経済安定本部の一部、いわゆる安本、アンポン)の笹生仁(ひとし)先生が非常勤で「工場立地論」を担当していました。早速授業の他に個人的にも、いろいろ教えを乞い、その後、現在に至るまで指導、薫陶を受けています。
 大学を卒業する頃は、兄も会社経営に慣れて家業も安定してきました。そこで「経営工学」と「地域開発」とをさらに勉強しようと思い、工学部から日本大学の商学研究科に進学しました。

(日大・東大紛争に参加)
 大学院の時、日大・東大紛争が起き、副手として教員共闘に加わりました。両大学及び他大学、また関係機関との連携のなさ、悪さから運動が行き詰まってきました。
 そこで各大学の友人と一緒に日大・東大教員共闘連絡事務所を学外に開設し、運動の調整及び逮捕者の支援活動を行った。この時、物事を進める上で調整活動(コーディネート)、機関がむしろ活動自身の方向性、特色をも決めかねない事、またその重要性を痛感した。


(大学院時代)
 年末('05年)に大掃除をしていて、昔の資料を整理をしていたところ大学紛争の写真がたまたま出てきました。若い皆さんに大学紛争と言ってもまったく実感がないようです。そこで良い機会ですので、また何処かに紛れてしまわないうちに、顔がわからないような写真を選んで掲載してみました。

《大学院時代、1965〜1969年》